May in the dark

生きるのに困ったら

nostalgic phantasm

男子校 / 女子校だった母校が少子化の煽りを受けて共学になる。 部活の強い学校が、学力問題の煽りを受けて進学校になる。

あなたがおとなになって変わっていくように、 学校もまた、時代に併せて変わるもの。

今回のことから我々が得るべき教訓は、思い出は思い出のままにしなければいけないこと。

特定の現実世界の何かと紐付けてはいけないということ。

The Dolls without Rebelliousness

やはりガガ様は良い。

色々と問題な面も多く報道されるガガ様だけど、個人的にガガ様が好きな理由は、生まれは裕福であり、一流の教育を受けた、いわば「勝ち組」の層に属する人間なのであるが、人間の闇の部分をよく知っていること。そして、その闇に光を当てる事を決して躊躇しないこと。この二点に尽きると思う。

そんな事はさておき。

実は、私は最近、高校生の面倒を見ている。 まぁ、大学生になった子も居るから、ハイティーンあたりの面倒を見ている。というのが正しいか。

私よりも12歳くらい年上の先輩達は、「キミは(コミュ障なのに)高校生に溶け込むのが上手い」と、ある種不思議がって見ている。

答えは単純で、彼らの抱える闇を私が見ていて、そこに光を当てているからだ。けれど、多くの大人。あるいはハイティーンたちには、その闇が見えない。当たり前である。本来不可視の物なのだから。

さて、皆様々な闇を抱えながら生きているのであるが、 1つ思うことがある。

それは親との関係。

まぁ私自身25にもなってまだ決別出来ていないのだから、15〜19のハイティーンたちにとってはもっと、しんどいものがあるんだと思う。

反抗期が来ない。反抗期が来れないのである。

第一次性徴、第二次性徴、体の発達と並んで心の発達も非常に重要なこの時期に、「反抗期が来ない」というのは、心がいつまでたっても成長しないということ。

本来は、自立のために必要な、親に向かっていくはずのエネルギーはどこへ向くかというと、例えば教師。例えばクラスメイト。例えば社会そのものに。そして最悪な場合、自分自身へと向かっていく。(自分自身へ向かった場合自殺に直結する。非常に危険

だが、あくまでそれらは他人。本来なら有効な関係を築く練習台なのに。しかも相手はレスポンスを返さない。暖簾に腕押し。

自分の居場所を更に失い社会から孤立していく。悪循環。

じゃぁ、なんで、親に反抗できないんだろうか。

よくよく耳を傾けると、彼らは幼いころの反抗期。すなわち「第一次性徴」にもコケている事。そして、非常に真面目で子ども想いな両親が多いということ。

子どもに痛い目にあってほしくない。将来食いっぱぐれがないように。などなど。みな、子ども想いで子ども重いなのだ。

「自分のために」親が行動しているのを知っているので、子どもは親に反抗できない。冷静な理性が本来の成長を止めてしまう。

でも気がついて。

あなた達は人形扱いされているだけなのですよ。

あなた達が死んだら、それはそれは深く両親が悲しむことでしょう。けどそれは、多分、大事な子どもが殺されたからではなく、大事な人形が壊れたから悲しんでいるのですよ。

The mind of the miltiverse

私は多分多重人格者だ。

でも、多分今時多重人格なんて珍しくないものだと思う。twitter 複数アカウント持っているなんて何も珍しくない。所謂裏垢とか、例えば現実垢とネトゲ垢とか。

ちゃんとTPOをわきまえて、社会に適応しようとしてるのよ。

アカウント一つ一つに私の人格が込められていて、それは全部私自身。まぁ、人間の心なんて物はプリズムみたいなもので、1つの世界を、多次元的に見ているに過ぎない。

同じものを見ているけど、見ている面が違うというか。

まぁ、最初はそれで良かったんだけどね。 だんだんそのプレーン同士が、分離し始めたんだよねー。 なんか、どれもこれも自分じゃないというか。

闇の部分は傷のなめあい垢で。現実世界の事は現実垢で。ネトゲの事はネトゲ垢で。みたいな感じで、自分の表面を区切ると、自分自身も分離していく。

現実世界のプレーンの私は、ネトゲの友人を信頼していないし、ネトゲの世界のプレーンの私は、現実の友人を信頼していない。

私はただ、TPOをわきまえて発言をコントロールしようとしているだけなんだけどなー。気がつけばどれが私で、何が大事なのかわからなくなっていく。そしてどんどん「あれ、この人とは何を話したら良いんだっけ?」となっていく。

これが適応障害

周囲の人間関係に適用しようと"過学習"することで陥るハミルトンの袋小路。

ああ、1つの物事に集中したい。

The doll with a micro mind.

正直上手くまとめられるか自信がない。でも、これを文書にして書き残さなければならないと、いけない気がしたから書き残します。

結論を先に書く。

私は人間ではなかった。

もしかしたらって思い悩むことは何度もあった。何度も自殺を考えた。何度も何度も。いつの間にか、口癖が死にたいになっていた。

冷静に考えたらおかしい状態なのは、誰にでも分かるはずだ。5分に一回くらい「死にたい」って発言してるなんて。

理性に余裕があるときは、声に出さずに押し殺したり、小声で言ってるが、一人だったり、疲れてて油断してたりすると、はっきりと周囲のひとに聞こえる声で「死にたい」と言っているのである。

さて、人間では無い私は一体何なのか。

神様にだったらいいなーと思っていたがそんなわけ無い。

私は、母の人形で、父のペットだったのである。

結論を得る過程で、わかったことがある。

自分とは、今まで生きてきた過去と、自分が向いている未来である。

つまり、自分が生きてきた過去を否定し、未来への希望を失った途端、人間は自我を失い、もろく崩れ去ってしまうのだ。

私は自分の事を人間だと思っていた。しかし、私は人間ではなかった。過去も未来も無い、ただのモノだった。

薄々気がついていた。認めたくなかったのだ。

自分がマザコンであり、ファザコンであり、バイであり、精神障害者だと言うことを。

「失った自分」なんてなかった。最初から自分なんてなかったのである。

私は、多分、異様で異常なほど、教育という分野へ執着心を持っている。 ずっとまえから自覚している。

だからこそ、私のような人間は教育事業に関わるべきではないと思っているのだが、どうしても粘着してしまう。手を出さずにはいられない。

その異様なまでの執着心がどこから来ているのかわからなかったのだが、ようやく発見できたのである。

それは、ほんの生まれて間もなかった頃の私が、人形として、ペットとして生きていくしかなかった私が、 無意識のうちに心の奥底に押し込めていた、本当の私のココロなんだと。

人間として生きていきたい。自分の心で、意志で、生きていきたいと願う、 未熟なココロの私が、私という人形を動かしていたのだった。

躰は25歳なのだが、ココロは0歳児とか、ひどい話だなー。と自分に対して思う。

人間としての生き辛さの正体は、従順な人形になることと、猫のような気まぐれな態度をとることしか、人との関わり方を知らないから。

自殺願望の正体は、作られた私を破壊して、人間として生きたいという、幼い幼い私の本能からだった。

すべてに納得が行った。すべてを受け入れた。

自分は、重度のマザコンであり、重度のファザコンであり、バイであり、精神異常者だと言うことを。

他にいい言葉がないからバイって言葉を借りるけど、厳密に定義するならば、ココロが未熟なので、「未分化」の状態だと思ってる。 躰は100%男だけど、ココロはどっちかわからない。

教育を受けたい。ってずっと思ってる。おかしい。

大学まで一応卒業しているはずなのだが、ずっと「教育を受けたい」って言ってるの、おかしくない?

さて、どんな教育を受ければ良いんだろうか。学校に行けば良いんだろうか。

人間になりたい

今世界で起こっていることはこんなにも簡単な事なのに

2020年前後は、きっと100年後の歴史書からしたら、世界恐慌に並んで激変の時代として、学校で教えられるんだろう。

けれど、どんなにテクノロジーが発展しても、どんなに世界情勢が変わっても、人の本質は変わらない。

人の本質とは、食べる。寝る。愛しあう。そして死ぬ。それだけだ。

だから、どんなにテクノロジーが進化しても、どんなに人口が増えても、どんなに世界経済が悪くなっても、この4つだけは絶対に変わらない。

明日の予測が困難な時代だ。と言っている人達は、多分、バカだ。いや、それは馬鹿じゃなくて、きっと前世での行いが凄く良くて、生まれつき恵まれた人達なんだろう。美味しいものを食べることに、安心して眠ることに、好きな人と愛し合うことに。多分、それほど困ったことがないんだろう。って思う。

「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」 と似たような事を言う人がいっぱいいる。そうじゃないんだ。

マズロー欲求は本当によく出来ている理論だと思う。5段階の奴が有名だけど、マズローが最期に残した欲求説は6段階ある。下三段が生物としての人間の欲求、上三段が人間としての人間の欲求。すなわち、生理的欲求・安全欲求・社会欲求・尊厳欲求自己実現欲求・自己超越欲求である。

さて、この低次の欲求が満たされないとどうなるか。話は極めて簡単。

社会欲求が満たされないと、いじめや差別や偏見が発生する。自分と同じ物で周囲を囲い社会的欲求を得ようとする(←今世界はこのステージに居る)

安全欲求が満たされないと、攻撃してくる他者を恐れて攻撃を仕掛ける。暴動から始まり、最後は戦争に至る。(←このまま行けばこのステージに突入する)

生理的欲求が満たされないと、もっと程度の低い事。つまり、略奪と強姦が頻発するようになる。(←生理的欲求が満たされない人の数だけ発生する。)

たったコレだけの話なのだ。

今、世界にどれだけ社会欲求が満たされない人が居て、どれだけ安全欲求が満たされない人が居て、どれだけ生理的欲求が満たされない人が居るのか。考えたらこの先、世界がどう向かっていくのかが分かるだろう。

人間の闇とは、人間の生きる行為そのものなのだから。

覚悟なら無い(Kとは違う

認知行動療法。というものがどんなものなのかは、皆目検討もつかないが、少なくともわかっていることは、

  1. 「変わる覚悟」を求められるということ。変わる過程で、精神へ非常に大きなダメージを与えるということ。「心」という見えない存在に対して、破壊と創造のイノベーションであること

  2. 生きてきた年数分だけ、治療に時間がかかるということ。

  3. 治療を実施する者は、私よりも思慮深く、私よりも心について、人間について理解している者でなければならないこと。また、周囲の者の協力が必要不可欠なこと。

1 に関しては、正直不安がある。自分が自分でなくなるのではないか。つまり、今の自分は死んでしまうんじゃないだろうかと。(肉体的な意味ではなく、心的な意味で)

2 時間に関しては、あーざっと25年はかかるのねー。と思ってる。 なんせ、私のココロとは、25年近く生きてきた結果の産物なので、それを覆すには3年じゃ足りないだろう。先を思うとゾッとする。

そして、3 コレが一番の大問題なのだが、私の治療を担当できる先生なんて果たしてこの世に居るのだろうか。居るとしたら、どれだけの大金を積めば良いのだろうか。もしそんな人が居て、名乗り出てくれるのであれば、是非、連絡先と金額を教えてほしい(笑)

今も通っている心療内科?の認知行動療法士さんとは合わなかった。凄く真面目で熱心な方で、決して悪い人ではないのだが、私のほうが上を行ってしまった。つまり、私が築いてきた人間観を覆せなかった。

ましてや周囲の協力なんて皆目検討もつかない。

以前私を担当し、自閉症だと診断した医師は、「私は経験から学ぶ。大人や周囲の言うことは信用できない。やってみなきゃ納得できない」と言う私に対して「そこがあなたの問題です」とはっきり言い切った。

確かに、大人になった今の私にとっては、問題だと思う。なんとかしなければならない。と思っているがどうしていいかわからないから困ってる。

けれど、幼かった子どもの私にとって、それは私の問題ではなかった。

つまり、幼い私がアホな事をする前に、私を諭せたり、私が信用できる大人が周囲に居なかった事。コレが最大の問題だった。

以前書いたが、幼いころの私は母の人形で父のペットだった。

少なくとも父は、幼いころの私に対しての接し方を反省しており、逆にこちらが申し訳ないくらい下手に出ることが増えて、それはそれで問題なのだがそれはさておき。

教師がまるで無能なのは、小2の時から知ってた。特に小3の担任はひどかった。いじめ問題にても足も出せなかったし、小5・6のときの担任は、子どもを自分の思想だけで支配して自己満足を得るやつとんでもないヤツだった。

まぁ、小5・6のときの担任のおかげで、私は、理系人間には至極珍しい詩的センスを用いた文章力を手に入れることが出来たので、一概に100%悪いとは言えないのだが……。

メンターを探している。

私より思慮深く、私より心の優れた、私を導いてくれる大人を、ずっとずっと、幼い私が求めてる。

May in the dark

技術ブログとは別に、ブログを立てた。

コンセプトは、闇の中であろうとも生きる。

高校生の時も似たようなブログを書いていて、大学生の時は、だんだん書きづらくなって辞めたのですが、やっぱり自分の考えを整理する場所がほしい。ということで、書き連ね始めることにした。

アカウントが紐付いているから、いつか誰かにばれるんだろうけど、それまでは、匿名の一人ということで書こうかなと。

以下は自分に課すルール。

  • 固有名詞は出さない
  • 闇をただ吐くだけじゃなくて、どうしたらその闇を解消できるか、または回避できるかを書く。

Google 検索は役に立たない。 悩みを抱えても、検索窓に入れても、出てくるのは意味不明なキュレーションメディアばっかり。 意味不明なキュレーションメディアも悪いけど、それよりも、ネット上でブログを書く人が減っている気がする。

だから私は堂々と書く。 同じ悩みを持つ人が居て、ここにたどり着いて、何かしらのヒントを得る事ができたなら、 書いて、公開することに意義があるんだと思う。

2016年12月11日 May in the dark を書いてる人