May in the dark

生きるのに困ったら

神はサイコロを振る。が、世界はいずれ収束する

神はサイコロを振らない。と言うのは、アインシュタインの有名な言葉の一つで、観測するまで状態が一意に決定できない曖昧なふるまいを許容する量子力学を批判する言葉として用いられた。

 

私はもちろん素粒子物理学のプロじゃないので、最低限の教養程度しか把握していない。しかし、一つ一つの粒子の曖昧なふるまいを許容するのに、しかしながら最終的には結果は一つに収束していくというのはなんとも不思議な話である。確率は収束する。

 

もちろん、確率1/6 のサイコロが完全に1/6 に収束するかと言われるとそうではない。コインの表裏が完全に確立通りに収束するなら この世界は、物質と反物質が打ち消しあい完全に存在しない事になる。しかし、実際にはそうなっていない。非対称性の破れがそこには存在する。

 

しかし、そのような事は本当に稀であり、現代科学の理論の中では、現在の宇宙に至るまでの確率は宝くじを引くよりもはるかに低いのだとか。だから、そういうレアケースの事を特に考えないのであれば、神はサイコロを振る。しかしその結果は一つに収束する。まるで神の上位の神が存在するかのように。

 

ここ一年くらい、AIの発展によって、そもそも人類は知的生命体なんかじゃないんじゃないかとと思い始め、そうであれば更に自由意志なんてものも怪しいと思っている。自由意志が存在しないのであれば、未来は運命によって決まっている。しかし人間は自分の意志や行動によって未来が変えられると信じている。

 

なんでだろうなと思ったが、これは先ほどの確率の話と一緒なのではないか。

人間は必ず生まれ、そして死ぬ。その因果を覆した人間はただの一人も存在しない。生という原因に対して、必ず死という一つの収束が約束されている。

 

だから、大事なのは、結果ではない。どの道を辿るかである。

神はサイコロを振る。だから、道中、どこの道を辿るかはわからない。けれども最終的にはただ一つの結果に収束する。

 

さて、人生と言うスパンで考えると因果が1:1なのであまりにも面白くないが、現代社会では、必ず通るべき(あるいは通ることになりやすい)チョークポイントのような、確率が収束するポイントが何か所か存在すると考えられる。

 

例えば、小学校に入学する。なんていうのは、先進国の生まれであればかなりの確率で通るだろうし、厄年という考え方は、多くの人が通りやすい苦難をある確率で示しているようにも思える。

 

話を戻して、結果が収束することが約束されているのであれば、その道中は無茶が効く。人間に自由意志なんてものは無いが、過去から未来に続く連続性によって作られたものである認識だけが現実なのであれば、その道筋を捻じ曲げることができる。

 

と、回りくどい言い方をしてきたが要するに「人間どうせ死ぬんだし、無茶苦茶やっても良くね?」である。反社会的である。

 

かといって実際に反社会的な行動をするつもりはさらさらないが(面倒くさそうだし)、変にかしこまる必要もない。

 

物語を書くというのは、一つの道筋を示すという事だと考えられる。原因と結果は必ず一対一だが、その道中も一本とは限らないのに、それを可能な限り一本に集約させる。これが宗教だ。一本に集約させると、集団の統率が取りやすい。自分の世界を押し付けることができる。

 

自分の思い描く一つの物語が勝手に走り出したら、あとは自由になれる。それが闇の中心で私が思い描く一つの生存戦略だ。

 

 

 

世界とは自分であり自分とは世界である

 

まーーーた、あやしいスピリチュアルっぽい話だな。

 

ここ1年近く、どうして日々世界が悪化していくのだろうと考えていた。遠く離れた戦争の事から、自分の身近で起こった出来事まで。

 

「自分にしか出来ない仕事がしたい」なんて思ったことはない。むしろ「自分にしか出来ない仕事なんて言うのは、業務ロジックが明文化されてないダメなタスクの典型例だ」とさえ思っている。

 

そんな私が「自分が頑張らないと崩壊する」と思わざるを得ない場面に、仕事でもプライベートでも遭遇し過ぎた。結果、私は心身ともにキャパシティオーバーして壊れてしまった。

 

私は今まで何度も、コミュニティの崩壊に出会ってきた。職場崩壊、家庭崩壊、はてはネトゲのギルドの崩壊まで、自分がコミュニティの中心に近いコミュニティほど崩壊が早く、逆に自分が中心から遠いコミュニティほど、長く存続しているように思う。

 

けれど、自分が「中心に近い」ではなく、「自分が中心になっているコミュニティ」では、諸々の理由で活動が終了し「解散」となった事はあれど、「崩壊」と言った現象は無かった。

 

例えば、前々職のチームでは、私がチームリーダーを務めていたわけだが、様々な困難はあれど、プロジェクトの満期終了に伴う解散であったし、自分が主催したイベントも、イベントが無事終わって解散したが、そのイベントをきっかけに結婚した夫婦まで現れた。

 

自分が世界の中心だなんて思っても居ない。そもそも地球はきっと宇宙の中心じゃない。けれども。この世に「自分」などと言う自由意志が存在せず、「自分が自分であるという認識」だけがこの世界に唯一存在する現実なのだとすれば。

 

常に世界とは自分であり、自分とは世界である。

 

世界とは自分であり、世界とは自分であるのなら、自分の認識で世界は変わる。「こうしたい」とか「こうありたい」とか、もっと堂々としていればいいのである。それを邪魔する奴が現れるとすれば、それさえも、自分の認識が「敵」を生み出しているに他ならない。

 

最も大事なのは、自分だけの現実。それさえ見失わなければ、モチベーションを上げるために何かを摂取したり、モチベーションを下げないようにする工夫を凝らさなくても良い。

 

自分の持っている熱量がそのまま、コミュニティの大きさに直結する。自分のモチベーションが高いときは、自然とコミュニティも拡大する。熱膨張と一緒だね。逆に下がるとコミュニティも自然と収縮する。

 

1人で生きていくとは、つまるところ究極の自己責任の世界であり、自己解決の世界でもある。もちろん、一人で生きていくことなんてできはしないのだが、心持としては間違っていないだろう。

 

今日、雨が降っているのも自分の所為だと考える。まぁ、それはさすがに行きすぎな気もするけど、世の中逆の方向に行き過ぎた奴らの例として、「ダンスパウダーを積んだミサイルをアメリカが打った」なんて言う奴らもいる。究極の他人任せの世界だ。

 

自分のために自分の事を何とかするのが、一周回って世界をよくする。我田引水とは違う。我田引水は短期的にはプラスかもしれないけど長期的には結果損する。本当に自分のために何かをしていることにはならない。

 

 

世界で最も有名なメンヘラ事レディガガの言葉で「深い影が差しこんでいるとき、あなたは光の中にいる」というのがある。つまりそういう事なのだ。だからこそ、このブログのタイトルは May in the dark なのだ。

 

せめて異常者らしく

別に、社会を転覆させようとか、誰かを殺そうとか、そんな事を考えたことは一ミリもない。今までだって、今からだってそうだ。そんな事にはまるで興味がない。

 


これまでそこそこ長いこと生きてきたが、なんだかんだで社会に適応して生きてきたつもりだし、なんならかなり適応していたほうだと思う。そこには、それなりの努力と運が巡り巡った結果だったのだが、とにかく私は「普通」にコンプレックスがあったと思う。


しかし、前にも述べたように「普通」とは「虚無」である。

 

無が私を引きずりこんでくるのである。「お前も普通になれ」「俺たちの仲間になれ」「そうしたら楽になるぞ」

 

普通とは虚無である。何も持たない人間に、物語を植え付けるのは簡単だ。そうしたら後は社会の歯車になる。

 

 

しかし私は虚無ではない。どうしても普通にはなれなかった。なれなかったから、今こうして、また闇の底に帰ってきている。

 

 

だったらいっそ。せめて異常者らしく、突き抜けようじゃないの。

 

 

少し昔の(昔のと言っても全然存命の方々だが)人でいうと、まぁ間違いなくビルゲイツは異常者だろう。天才だって異常者の一種だ。

 

ジョブスだって異常者だ。ビルゲイツが技術者として天才だとすれば、ジョブスは宗教家として天才だ。いやいや、リンゴもテクノロジーの会社だろと思うかもしれないが、技術的な事はだいたいウォズニアックが全部やっている。

 

突き抜けた異常者は、なぜか社会的な成功をもたらす。


突き抜ける事が出来なかった異常者は、社会的に排除されるか、自ら反社会的な行動を起こし、結果社会から排除される。


私はまだ死んでないし、しばらく死にたくもないので、どうせ生きるなら排除されるより、社会的な成功をもたらしたほうが生きやすい。


私に必要なのは二つ。

 

新しい物語と、それを裏付ける圧倒的な力。

 

 

次にこの闇を出る時、怪物として世に君臨しようぞ

まだ私は死んでない

 

この世には宗教と言う概念が存在するが、一神教であれ多神教であれ、その形態が言い伝えにより浸透する民族神話か、教典に乗っ取った組織だった宗教かはさておき、とにかく宗教と言う物は、人間の死生観を決定する非常に大事で重要なファクターである事には間違いない。

 

さて、どんないかなる宗教も、多かれ少なかれ、死語の世界として「天国」と「地獄」という舞台を用意している物が非常に多い。(無い民俗信仰もあるけど)

 

例えば仏教は六道輪廻と言って、死後の世界を6つに分類しているが、その中でも、キリスト教で言う地獄に相当する奈落と、天国に相当する浄土がある。

 

更にさらに、(言い方は千差万別だけど)「魂」と言った概念はほぼすべての宗教・民俗信仰で存在する。そしてだいたい、なんらかの形で、魂と言う概念は不変の存在であることが多い。

 

逆説的になってしまうけど、これだけ世界中で「魂の不変」が唱えられるという事は、それだけ、「我々は自我を持っている」という人類の認識が、非常に強力で強大である事に他ならない。

 

 

 

 

時代は進み、科学が宗教に置き換わってもう随分経つはずの現代。

 

実は全然、宗教は科学にに置き換わっていなかった、と言うのがここ最近の私の気づきであるのだが、そんな、宗教を科学に置き換えられない大多数の人類にとって、ここ数年の科学の発達はあまりにも早すぎた。

 

優秀なアルゴリズムとコンピューターリソースの集合体の事を世間はAIと呼ぶが、所詮は、ニューラルネットワークを膨大なLSIで実現してるだけに過ぎない。維持には莫大な電気代がかかるし、それを開発・維持・整備する人間は数万人必要だし。こんな物が人類の全てを置き換えられるわけがない。

 

「AIが人類の仕事を奪う」とか言ってる奴は、不安を煽って本を買わせようとする新興宗教(最近はそれをインフルエンサーと言う)の教祖か、研究資金が足りてない貧乏なAI研究者か、人類に絶望し心の底から人間を嫌っているサイコパスの三択である。

 

ChatGPT の生みの親のサムが語るように、現状の手法では、これ以上の発展には限界が来つつあるのだが、しかし残念なことに、大多数の人類にとって、AIは自分が信仰してきた宗教の限界を遥かに超えてしまった。

 

宗教が死生観を定義する最大の恩恵は、社会に属する人間に対して「生きる意味」を強制的に与える事である。

 

前回・前々回でも語ったように、一つの物語を共有することで人類は発展してたわけだし、その物語において、個々人に「生きる意味」を与えることで、その人を社会の歯車として機能するようにしてきた。物語を共有してきたからこそ文明は発達してきたのだし、物語を共有できなかった文明はもうすでに滅んでしまった。

 

 

宗教と同様に、科学は一つの強力な物語を共有する。それは、森羅万象を人類は解き明かすことができる。森羅万象を解き明かす過程で人類はより発展し幸福を手に入れることができる。といった趣旨の物語である。

 

この物語は、既存の宗教よりも遥かに強力で効果的だった。既存の宗教よりも圧倒的に実利を伴う。私が今こうやって、パソコンの前で誰も見ていないであろう文章をカタカタ打ち込めるのも、科学のおかげである。宗教のおかげもミリくらいはあるかもしれないが、まぁ極めて限定的だろう。

 

しかし、科学には唯一にして最大の致命的な欠点が存在する。それは、死生観を定義できない事である。定義しようとする試みはもう数百年と続いているが、それはまだ実現せずにいる。

 

死生観を定義できないという事はつまり、科学は生きる意味を人々に与えてくれない。

これが科学の最大の欠点で、だからこそ、21世紀もずいぶん進んだ現在でさえ、宗教は全然科学に置き換わっていない。

 

いわゆるAI技術の急速な発達と普及に伴って、一つの疑問が徐々に確信へと近づいていく。それは、「人間は果たして本当に知的生命体なのか?」という投げかけと、それに付随して生じる「そもそも、魂や自由意志といった物は存在するのか?」という問いである。

 

確かに、人間が持つ知能や生態機能を人工的に再現しようとすると、莫大な設備が必要になる。よくこんなものがこの体に収まっているなとひどく感心するが、それでもだいたいの機能の置き換えができるという事が証明されつつある。

 

じゃぁ、それを全部実装した設備は、人間なのか?自由意志を持っているのか?魂が宿っているのか?という哲学的な問いが発生するだろう。

 

この問いに対する科学的な答えは明確に No あるいは None である。そもそも魂と言う物を定義できていないのだから回答できないが正しいか。

 

一方、宗教的な回答はYes と No の真っ二つに分かれるだろうが、これは「自由意志」や「魂」と言ったものの存在を前提にしているからこその葛藤である。

 

余談になるが、日本の神道は宗教の中でもかなり異質で、なんとそのへんの石にさえ魂が宿る。森羅万象あらゆるものに魂が宿ると考える。魂をがあるか無いかを前提に線引きするその他多数の宗教とは明らかに一線を画す。先ほどの問いに対しても、明確にYes だろう。笑

 

話を戻すと、科学は淡々と「自由意志」や「魂」と言った存在を否定しつつあるが、宗教は「自由意志」や「魂」という存在を大前提にしているので、これらを否定されると完全に崩壊してしまう。

 

自分には自由意志なんてない。全ては化学反応の集合でしかなく、魂なんてものは無いし、死んだらそれまで。自己と言う存在はあまりにも不安定であり、機械的であり、刹那的である。

 

それを認めてしまうと、じゃぁ何のために生きているのか?何も希望が持てなくなってしまう。何とも言い難い、耐えがたい恐怖に襲われて死にたくないのに死にたくなるような、逃げ出したい感情に支配されてしまう。だから大多数の人間は認めたくない。

だから、21世紀にもこんなに進んで、宗教は科学に置き換わらないまま、科学だけが人類の大多数を置いて先に進んでいる。

 

それを認めて平気な顔をして生きていられるのは、一部のサイコパスだけ。

 

でもね。

それを認め、受け止めて、一通り怯え、人類に、世界に、何もかもに絶望した今でなお、私と言う存在が、今ここに生きている。

 

まだ私は死んでいない。

 

ただそれだけが、生きる理由であり、希望であると認識したこの場所が闇の中心であり、一様な世界に原点を作る。

 

新しい物語を生み出すための土台が整ったから、次回からは物語を組み立てていこうと思う。

たった一つの物語が共感性の暴力を生む

人間が持つ能力の一つに、共感というものがある。

 

言われてみると不思議な能力で、自分が直接経験したわけでもない事を、あたかも自分が経験したかのように他人の経験を感じ取ることができるという不思議な能力。

 

色々な論文によると一般的には女性のほうがこの共感能力が高いらしい。

 

この共感という能力、非常に暴力的な能力でもある。

 

強制的に他者に一つの物語を植え付ける事ができ、同じ物語を共有しないものを徹底的に排除する機能を持つからである。

 

そう、宗教と一緒だ。

 

前回、前々回の記事で、私は、ほとんどの人間は無であると書いたが、他の個体から何らかの物語が共有されるのを待っている、パッシブモードみたいな物だと考えることができる。

 

じゃぁ、発信源はどこなのか?

 

人類には、明らかに、その物語の発信源となる個体が存在する。カリスマとかインフルエンサーとでも言うべきか。

時代が違えば、英雄や救世主などと呼ばれたかもしれない。

 

 

一つの個体が物語を生み出し、それを共有することで人類は文明をここまで大きくしてきた。

 

 

たった一つの物語が、共感性の暴力を生む。

 

百年国恥

 

これは中国のスローガンみたいなもので、西欧欧米や日本に占領され植民地支配されてきた時代の屈辱を忘れるな。と言う物。これを言い出したのは誰かわからないけど、少なくとも毛沢東の時代にはあったと思う。

 

たった一つの物語が今、世界を脅かしまくってる。

 

ロシアの事は詳しくないから分らない。プーチンが失脚すれば戦争が終わるとか言う人が居るけど、そんなことは絶対にありえない。なぜなら、ロシアのナショナリズムは、プーチンだけの野望ではなく、共有された一つの物語だからだ。必ずそれを引き継ぐ何かが現れる。むしろ、強大なカリスマを失う事で、暴走して取り返しがつかない可能性のほうが高いと思っている。

 

 

そもそもとして、歴史を振り返ってみると、一つの物語に過ぎないキリスト教がヨーロッパを蹂躙しつくしたし、一つの物語を共有しあえなかったアフリカは今も民族紛争が絶えない。

 

 

たった一つの物語が、共感性の暴力を生む。

しかし、その暴力によって平和が作られている。

 

 

私たちには、新しい物語が必要だ。

誰かが書いた筋書きなんて、ただの幻想にすぎない。

 

 

面白いシナリオが描けたら、そこが自分だけの現実の始まりだ。

 

 

この世には何も無い。あるとすれば、それは自分だけの現実

そもそもとして、この世が何かに満ちていると考えるところからスタートするのが間違っている。

 

この世はそもそも無なのだ。いや、水も空気も宇宙も存在するだろうって思うかもしれない。「そう認識する自分が存在する」この一つだけがこの世の真実であり、それ以外は全て、自分の認識が生み出した幻想にすぎない。

 

だから、自分の認識だけが世界を変えられる。過去さえも変えることができる。

 

 

胡散臭い宗教みたいだな?

 

 

胡散臭い宗教がなぜ胡散臭いかと言うと、教祖(呼び方はどうでもいい。その宗教で一番偉い人)が持っている自分だけの現実を他の誰かに「布教」しているから胡散臭いのだ。

 

自分がどう思おうと、それは信心の自由ってやつよ。

 

 

この世には何も存在しない。

が、そこに何かが有ると認識する自分だけが真実を生み出すことができる。

 

 

まぁ正確には、そうやって生み出され続けてきた真実の数々を土台に、今こうして私と言う真実が存在できているわけだが。

 

 

自分だけの現実をコントロールしだすと、周囲にはこう言われる。

 

「あいつは異常者である」

 

そうだ。それでいい。異常者であることを自覚するところから異常者は始まる。

 

あなたとわたしは違う。それを認識できるあなたは、認知力が高くすぐれた思考力を持っている大人だ。

 

あなたとわたしは違う。それを認知できないのは赤ん坊だけだ。けれど、それを認知できないまま大人になってしまう人間がこの世は大多数らしい。

 

 

ここ2年くらい。権威について考えていた。

権力と言っても良い。人によっては「帝王学」なんて言うかもしれない。

 

どうして貧困弱者ほど、権威とか権力とか、そういう支配者を求めてしまうのか。

それは、彼らが無だからである。弱いからである。何か「強い現実」に支配されてないと、不安で不安で居ても経っても居られないのである。

 

「あなたは強すぎる。私はそんなに強くない」

と、妻と不仲になる前に言われた言葉である。

 

私は、いやいや、物理的にも精神的にも私は弱いと思っていたので、「何を言っているんだこいつは」と思ったのだがそうではない。

 

何かに支配されなくても平気。自分の価値基準で世界を渡り歩いていける人。そんな人に支配されたかった。と言ったのだ(と、今になって理解した)

 

私は、何かを支配するとか、押し付けるとか、そんな物は何一つ求めてなかった。価値基準が違う事を認め合って、共に世界を渡り歩く意思が欲しかった。隷属なんて求めてない。

 

けれど彼女は違ったのだ。支配してほしかった。だから、自分の現実を教えてほしいなんて言われた日には、どうしていいか、何が自分の現実かもわからず、その時インターネットで流行っていたインフルエンサーの胡散臭い情報商材に手を出してしまった。

 

「将来100万円する変な壺とか買いそうだから気をつけろ」って言っていたのだが、その翌月に水素水の出るウォーターサーバーのチラシを持ってきたのだから、救いようがない。

 

 

 

 

自分だけの現実を持つことができる人間は、おそらく少ない。

 

勉強ができるとか、自頭がいいとか、顔がいいとか、そんな事は関係ない。IQが高くても自分だけの現実を持てないやつらが、オウムに入信してコスモクリーナーを作り出した。

 

 

ワンピースの世界だったら覇王色の覇気とか名付けられるんだろうか。

 

 

自分だけの現実が世界を支配できる。

強力で強大な自分だけの現実。

 

それを、この闇の中で育て上げるのだ

 

この世に私の望む幸せなんてどこにもない

人間と関わることを辞めて、早くも半年が経過した。

 

と言っても、最低限生命体として存続するためにスーパーにご飯は買いに行かなきゃいけないし、Youtube で過去の動画を漁ったりもする。

 

完全に人間と関わることを辞める事なんて、出来ないのである。それこそ死ぬしかない。

 

いやそもそも、死んでも人間と関わることを辞める事なんて、出来ないのである。死んで1000年も経つのに、突然英霊として現代に召喚されたりするらしいからな。

 

 

さておき。

 

 

2018年から2022年までの約五年間、私は本当に何を頑張ってきたのだろうか?

 

色々な事があった。

 

世界は、疫病だの、戦争だの、物価高騰だの、AIがヤバいだの、とにかく騒がしかった。

 

人生のスパンで考えると5年って長いなって思ったけど、冷静に考えるとたった5年か。とも思う。

 

そんな世界の変化なんて知ったこっちゃない。

 

まず、妻とは離婚した。

 

私の友人はみな私の肩を持ってくれた。いや、そんなのお前の元嫁のほうがおかしいだろと。私もそう思う。勿論、男性だけでなく、女性もみな私の肩を持ってくれた。

 

だけど待ってほしい。そもそも冷静に考えて、そんなおかしい女と結婚した私がおかしかったのではないか?

 

深く反省した私は、次は同じ失敗はしないだろう。

 

そう思って次の結婚相手を探したが、どうやら疑り深くなってしまったのか、客観的にみると女性不振に陥ったようだ。まぁ自覚はあったし、それを何とかするのがお前たち、認知行動療法を担当する医者の仕事じゃないのか?

 

医者曰く、自分を客観視する能力が高すぎるとの事。自分よりも認知能力の優れた患者の面倒は見切れないらしい。いやいやいやいや。認知行動療法とは???

 

以前、はてダか、ヤフー質問箱だかに、こんな事が書いてあった。

「所詮自分の脳内の出来事は、一連の化学物質の反応プロセスの一介に過ぎないというのに、人間は生きている意味なんてあるのですか?」

この質問の本当の答えは、「そんなものは無い」である。しかし、正直にそう答えると、この質問を書いた人は自ら命を絶つだろう。

だからみんな、家族が悲しむとか、自分が楽しいと思う事を探せばいいとか、頓珍漢で的外れな事を言って納得させようとする。

 

しかしそれで納得できないからこの人は苦しんでいるんだろう?なぜそれが分からないのか。分からない事が分からない。つまり、治療対象の認知力思考力が高すぎて、周囲が助ける事の出来ないタイプだったのだ。

 

という先行事例を発見したので、そこに関してはもう諦めた。

 

 

次に、仕事を辞めた。

 

というか、何もやる気が出なくなっって、気が付いたら辞めていた。

まぁ、そこに関しては、いずれ表のブログで書こうと思うから深くは書かない。

 

自分が納得できない事に加担すべきではない。とは前々からずっと思っていた。自分が呑み込めていないのに、無理やり進めると、心身が乖離して身動きが取れなくなる(=いわゆる、うつ病になる)という事はよくよくわかっていたつもりだった。

 

しかし、「そうはいってもこの場面では仕方ない」と無理やり納得して進まざるを得なかったところもある。

 

そうやっているうちに、気が付いたら、心身が崩壊していた。

 

いや、今回は結構やばかったと思う。なんせ体が終わっていたから、下手すれば本当に死んでいたかもしれない。いや、今も、未発見のガンが潜んでいるんじゃないかと思っているくらいには結構やばい。

 

医者曰くそんな物は見つからないというが、もし見つかって「手遅れ」だとでも言われた日には、あらゆる手段でその医者が二度と医者を出来ないようにしようと思う。これも人類のためである

 

さて、そうやって、「あーこの世に自分の望む幸せなんてどこにもないな」と気が付き、頑張ること、努力することを全て辞めた。

 

そもそも、幸せの定義が間違っていたのである。

 

幸せなんてものはそもそもこの世に存在しない。

 

あるとすれば、それは、「金と健康」ただこれだけである。

 

特に大病もせず、飯食って寝てセックスできればそれでいいんじゃ無いか?

 

マズローだのメンデルスゾーンだの、色々と精神構造に関する話はあるけれど、結局のところ、人間の諸欲望は、三大欲求を効率よく満たすための、補助欲でしかない(上手い事言った)。

 

誰かに認められたいとか、社会的な保証が欲しいとか、誰かと結婚して幸せな家庭を築きたいとか。それらは全て三大欲求を満たすための補助欲でしかなくて、人間はその補助欲を発達させることで、高度な文明と社会を築いてきたのである。

 

そう思うと人類ってスゲーな。

 

そもそもとして、私は根本的な三大欲求すら薄い。三日くらい飯食わなくても平気だし、睡眠リズムも完全にぶっ壊れているし、性欲も最近怪しい。かわいい女の子を見ても、「かわいいな」とは思うけど、それは子猫を見て可愛いなと思うのと何も変わらない。

 

 

そんなわけで、私の生きるモチベーションは「自分が納得する事」になった。ずいぶんハードルが下がったな。だって自分が納得すればいいんだから。

 

それすらも間違いだった。

 

そもそも、この世に「自分が納得できること」なんてほとんどないのである。

 

インターネットの発達によって、誰もが知識を共有できる世界は、人類の悲願だったんじゃないのか?

 

2023年。その悲願はだいたい達成されていると思う。人類すごくね??30年前はインターネットなんての、オタクの中のオタクしか知らない世界だったのに。たった30年でここまでの事を成し遂げた人類すごくね?

 

その結果、偉人や天才や賢者と言った、優れた人間はほんの僅かで、ほとんど大半の人類はアホであるという事実を改めて突き付けられたのである。

 

世界は再び、選民思想権威主義に染まるのであった。

 

何回目やねんこの流れ。100年ぶりN回目。

 

人類のあまりのアホさを前に、「自分が納得できること」なんてほとんどない。と言うより、減ったと思う。これは私が老いて、「昔のほうが良かった」という病に陥っているのか? その側面もあるとは思うが、にしても、納得できない事が増えまくった気がする。

 

そして至った境地が今、無である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、私は、最も恐るべきものは、「うつ病」でも「躁状態」でもなくて、そのどちらでもない完全なフラットな状態、つまり「無」であると説いた。

 

これは、真理を突いていると思っていて、実際、「どんな医者の言葉も納得できなかったけど、うつ病もエネルギーの向き先が内向きなだけで、まだ希望があるんですね」と、言った趣旨のコメントをもらったこともある。

 

 

今の私は無である。

 

エネルギーが無いのである。

 

0は方向を変えても0だからね。動きようがないね。

 

 

0を動かすには、外部からエネルギーを突っ込むしかないけど、もう外部から突っ込まれるエネルギーは全部断ち切ったからね。

 

とにかく、人間とかかわりたくなかった。

 

最も大事にすべき人間関係。家族、親友、同僚。

 

それらにことごとくボロボロにされてきて、これ以上、人間の何を信じろというのか?

 

 

 

そして、捨てた妻に言われた言葉を思い出すのである。

 

 

「それが普通の人間では?」

 

 

えっ、みんな、そんな虚無を生きているのか?

 

 

でも、確かに、そう考えたら辻褄が合う。

 

だから、みんな毎日何も考えずに、つまらないソシャゲに無意味に金を突っ込んで、ガチャを回して通勤して、上司の悪口を言って、家族は不仲で。

 

そうか。みんな無だったのか。これが。

 

「まずは普通に日常生活ができる状態を目指します」とか精神科は言うけどさ。

 

普通とは無である。

 

 

つまり、無に帰す事で、大多数の人間はギリギリ生命体として維持出来てきているのである。

 

 

 

 

そう思うと、少し希望が湧いてきた。

 

 

おそらく、ここにたどり着いたあなたは、無ではない。有である。

 

 

無から有は生み出せない。有はいずれ無に帰る。

でも、有から何かを生み出すことはできる。まだ有であるうちに、何かを生み出せる。ここではないどこかへたどり着ける。そう思わないか?

 

 

ようこそ、闇の世界へ。

 

光の当たらないこの心象こそが、次の世界に必要な暗闇じゃないか?

 

私はもう無に帰してしまって、終わったと思っていたが、突然、この記事を書いたという事は、まだギリギリ無に帰ってはいないみたいだ。

 

だから、何かが有るうちに、何かを作ろうと思う。

 

まぁ、時間はかかると思うけど、人生あと50年特にやることもない。気長にやっていくよ