May in the dark

生きるのに困ったら

人間の心は木々の年輪のような構造

これ、あまり心理学会でもキレイな解説が無いんだけど、 個としての人の心は地層の構造と極めて似ている。

人の心は、地層だったり、木々の年輪だったり、要するに、幾つもの層が重なって出来ている。

最も中心には、胎児期の心があり、最も表層には現在の自分の心がある。 人間は成長によって、心が変化しているのではなく、過去の自分の心の外側に1層、心を重ねていくのである。

もちろん、外側の層は、内側の層にも影響をあたえるので、徐々に過去の自分が形成した心も変化するんだけど、そんなに大きくは変わらない。 また、ACとか、トラウマとか、所謂心の傷というものは、内側から心が腐っているイメージなので、正直どうしようも出来ない。出来ることは、外側の層を分厚く固めて、内側が腐っても、木が折れないように補強するしか無い。

さて、コレだけなら、幼少期に心の形成にコケたら終わりで希望がないのだけど、一つだけ希望を提示したい。 それは、社会心理。

木で例えると、根を張っている大地に相当するのかな。 私達人間は、社会的な生き物なので、社会からも影響を受けている。それは、自分が所属しているコミュニティだったり、その時代の空気だったり。また、人間は植物と違って動くことが出来るので、自分が所属するコミュニティをある程度選択することが出来る。

木々が地面から水や養分を吸い上げるように、我々も社会から影響を受けている。 周囲のコミュニティが良ければ、内側から自分の心を癒やすことが出来るかもしれない。

もし、あなたが、限界を感じるなら、住む社会を変えてみて。 何度、変えてもいいと思う。幼い頃に積み重ねた心を癒やすかもしれないよ!

滅びゆく故郷、色あせていく情景、廃れていく社会、そして


私は大阪出身なのですが、外国人に故郷を説明する時は、「京都出身だよ」的な感じで、エセ京都人をしてます。

というのも、外国人に伝わる日本の地名って、「Kyoto」「Tokyo」「Fukushima」「Mt.Fuji」くらいしか無くて、(福島が入ってるのが辛いところですが)、わかりやすさ重視ということで「京都の近く」って答えてます。間違いじゃない。余談ですが、奈良は京都の一部だと思われてます。

 

私は今、東京に住んでます。
何があっても、絶対に故郷には戻らないと決めています。
(もちろん、お正月やお盆休みなどの帰省はしますけど、ここで言う「戻る」とは、住む(大阪府民に戻る)という意味です)

 

故郷に戻らない理由は、色々ありますが、以下の3つが大きいかなって思います。

1. 小中高大と、それぞれのフェーズで仲良かった友人がほぼ全員東京に住んでいる。

2. 少しでも両親の影響範囲から遠ざかりたい

3. 滅びゆく街、色あせていく故郷を見るのが辛い。

 

1 に関しては多分特殊な事情で、本当に仲良かった友人はほぼみんな東京に居るのです。なので、むしろ地元に帰ったほうが友人が居ない。笑

 

2 に関しては、まぁこのブログに書いてあるとおり。

 

3 に関して。

例えば、昔良く遊んだ森が伐採されてデパートになった!とかなら、たしかに寂しさはありますが、街は変化している。と感じるのですが、違うのです。

 

昔遊んだ公演が昔のまま、しかし整備はされていないから、ボロボロに。

昔よく行ったデパートが、シャッター街に。

昔通っていた学校が、20年前の姿のまま(しかし風化してボロボロに)

 

そう、徐々に廃れているのです。街が死に向かっているのです。同時に、街中で見かける人も、ほとんど老人になってしまいました。その中に居るだけで、自分の精神年齢が50も60も老けてしまう。まるで自分自身もジジババになったような、そんな世界がそこにある。

 

要するに、地元に帰るたびに、すごい勢いで鬱になるのです。

だから、私は戻れない。

 

 

 

 

ここまで故郷ディスをしたけど、じゃあ東京はどうなんだ???

と言われると、同じなんだよなー。。。

 

というか、もっと酷いと思っていて、未だに昭和懐古のお店が大量に蔓延っている。人口が多い分、8年後(東京オリンピックが終わった後の2025年くらい)は、もっと滅びているし、色あせているし、廃れた社会が迫っている。

 

じゃぁインターネットは??

それよりももっと酷い。まだ君ら私と同じ20代でしょ?というような人達が懐古厨になっている。未来に希望が持てないから、過去にすがるしか無い。そんな現実を突きつけてくる。

 

過去を捨て、未来を持てない私は、刹那的にしか生きることが出来ない。

そんな状態で、良いのだろうか

 

自殺を考えたことはあるか?

基本的にこのブログは、訪問者が居ない前提で書いてる。

こんなタイトルで記事を書いて、このブログに辿り着く人は間違いなく自殺を検討してる人(あるいはしたことがある)か、周囲に危ない人がいるかのどちらかだと思う。

そんなメタ的な話はさておき、自分の実体験を語ると生まれて始めて自殺を検討したのは小3の時だ。

だから、「小学生で自殺って考えられない」なんていう大人を見てると「こいつらほんと脳天気に生きてきたバカなんだな」って思う。

私で小3なんだから、もっと早い人は小1とか、もしかしたら小学校以前かもしれない。

私の両親は、「突然お前は死ぬのが怖いと言い出したが、ちょうどその頃は、ニュースで池田小事件が報道されており、年の近い子どもが何人も殺されたという事件は、子どもにとって相当ショックだったんだろう。って思った」 と後になって語っているが、それはとんだ見当違いである。

私は当時、本気で自殺を検討していた。この世から消えたいと思っていた。理由は色々あるが、そのうちの1つに「いじめ」が有るのは間違いなかった。

この時、私は真剣に「死」とは何か、調べ、考えた。それ以前の私は死についてあんまり分かっていなくて、「人間は死んだら姿が見えなくなって幽霊になるんだーー」って真剣に思ってた。実に小学生らしい発想で良い。

が、この時を境目に死について完全に理解した。理解したから死について、本気で恐怖したのだと思う。

でも、私にはこの自殺という以外に他の選択肢が発見できなかった。だから、ずっと恐怖し、ずっと葛藤した。

…………

さて、じゃぁなぜ自殺を考えたのかという話に戻るが、

「自分はこの世に居ないほうが良い。自分はこの世に生まれてくるべきではなかった」

という考えが、小3のときの自分には既に芽生えていたからだと思う。私のようなダメな子どもを持って両親はさぞ苦労したんだろう。私が出来ていなければ、両親はもっと幸せだったんだろう。

という考えが根本にあったからだと思う。

まぁ、今となっては馬鹿馬鹿しい話だと思えるが、当時は本気でそう思っていた。

次に考えたのが、どうやって死ぬのか。 高所恐怖症の私には、飛び降りは無理だと思った。(最も手っ取り早くて楽なのは確かなのだが)

何処かに放浪して飢え死ぬか凍え死ぬか。いやー絶対警察に見つかるよなー。水死は嫌だしなー。ってなって、結局切腹が一番いいんじゃないかってことで、台所で包丁をあさっていると………。

母が帰ってきた。

私は慌てて台所をさり、トイレに居たことにして、 笑顔で母を出迎えた。

…………

今にして思えば、その時から私は人形になったのだと思う。

多分私よりも頭の良い賢い子は、もっと早くに自殺を考えていたんだろうなって、思う。 幼稚園児でも、自殺を考えるケースはあるぞ。実行に移す可能性もあるぞ。

nostalgic phantasm

男子校 / 女子校だった母校が少子化の煽りを受けて共学になる。 部活の強い学校が、学力問題の煽りを受けて進学校になる。

あなたがおとなになって変わっていくように、 学校もまた、時代に併せて変わるもの。

今回のことから我々が得るべき教訓は、思い出は思い出のままにしなければいけないこと。

特定の現実世界の何かと紐付けてはいけないということ。

The Dolls without Rebelliousness

やはりガガ様は良い。

色々と問題な面も多く報道されるガガ様だけど、個人的にガガ様が好きな理由は、生まれは裕福であり、一流の教育を受けた、いわば「勝ち組」の層に属する人間なのであるが、人間の闇の部分をよく知っていること。そして、その闇に光を当てる事を決して躊躇しないこと。この二点に尽きると思う。

そんな事はさておき。

実は、私は最近、高校生の面倒を見ている。 まぁ、大学生になった子も居るから、ハイティーンあたりの面倒を見ている。というのが正しいか。

私よりも12歳くらい年上の先輩達は、「キミは(コミュ障なのに)高校生に溶け込むのが上手い」と、ある種不思議がって見ている。

答えは単純で、彼らの抱える闇を私が見ていて、そこに光を当てているからだ。けれど、多くの大人。あるいはハイティーンたちには、その闇が見えない。当たり前である。本来不可視の物なのだから。

さて、皆様々な闇を抱えながら生きているのであるが、 1つ思うことがある。

それは親との関係。

まぁ私自身25にもなってまだ決別出来ていないのだから、15〜19のハイティーンたちにとってはもっと、しんどいものがあるんだと思う。

反抗期が来ない。反抗期が来れないのである。

第一次性徴、第二次性徴、体の発達と並んで心の発達も非常に重要なこの時期に、「反抗期が来ない」というのは、心がいつまでたっても成長しないということ。

本来は、自立のために必要な、親に向かっていくはずのエネルギーはどこへ向くかというと、例えば教師。例えばクラスメイト。例えば社会そのものに。そして最悪な場合、自分自身へと向かっていく。(自分自身へ向かった場合自殺に直結する。非常に危険

だが、あくまでそれらは他人。本来なら有効な関係を築く練習台なのに。しかも相手はレスポンスを返さない。暖簾に腕押し。

自分の居場所を更に失い社会から孤立していく。悪循環。

じゃぁ、なんで、親に反抗できないんだろうか。

よくよく耳を傾けると、彼らは幼いころの反抗期。すなわち「第一次性徴」にもコケている事。そして、非常に真面目で子ども想いな両親が多いということ。

子どもに痛い目にあってほしくない。将来食いっぱぐれがないように。などなど。みな、子ども想いで子ども重いなのだ。

「自分のために」親が行動しているのを知っているので、子どもは親に反抗できない。冷静な理性が本来の成長を止めてしまう。

でも気がついて。

あなた達は人形扱いされているだけなのですよ。

あなた達が死んだら、それはそれは深く両親が悲しむことでしょう。けどそれは、多分、大事な子どもが殺されたからではなく、大事な人形が壊れたから悲しんでいるのですよ。

The mind of the miltiverse

私は多分多重人格者だ。

でも、多分今時多重人格なんて珍しくないものだと思う。twitter 複数アカウント持っているなんて何も珍しくない。所謂裏垢とか、例えば現実垢とネトゲ垢とか。

ちゃんとTPOをわきまえて、社会に適応しようとしてるのよ。

アカウント一つ一つに私の人格が込められていて、それは全部私自身。まぁ、人間の心なんて物はプリズムみたいなもので、1つの世界を、多次元的に見ているに過ぎない。

同じものを見ているけど、見ている面が違うというか。

まぁ、最初はそれで良かったんだけどね。 だんだんそのプレーン同士が、分離し始めたんだよねー。 なんか、どれもこれも自分じゃないというか。

闇の部分は傷のなめあい垢で。現実世界の事は現実垢で。ネトゲの事はネトゲ垢で。みたいな感じで、自分の表面を区切ると、自分自身も分離していく。

現実世界のプレーンの私は、ネトゲの友人を信頼していないし、ネトゲの世界のプレーンの私は、現実の友人を信頼していない。

私はただ、TPOをわきまえて発言をコントロールしようとしているだけなんだけどなー。気がつけばどれが私で、何が大事なのかわからなくなっていく。そしてどんどん「あれ、この人とは何を話したら良いんだっけ?」となっていく。

これが適応障害

周囲の人間関係に適用しようと"過学習"することで陥るハミルトンの袋小路。

ああ、1つの物事に集中したい。

The doll with a micro mind.

正直上手くまとめられるか自信がない。でも、これを文書にして書き残さなければならないと、いけない気がしたから書き残します。

結論を先に書く。

私は人間ではなかった。

もしかしたらって思い悩むことは何度もあった。何度も自殺を考えた。何度も何度も。いつの間にか、口癖が死にたいになっていた。

冷静に考えたらおかしい状態なのは、誰にでも分かるはずだ。5分に一回くらい「死にたい」って発言してるなんて。

理性に余裕があるときは、声に出さずに押し殺したり、小声で言ってるが、一人だったり、疲れてて油断してたりすると、はっきりと周囲のひとに聞こえる声で「死にたい」と言っているのである。

さて、人間では無い私は一体何なのか。

神様にだったらいいなーと思っていたがそんなわけ無い。

私は、母の人形で、父のペットだったのである。

結論を得る過程で、わかったことがある。

自分とは、今まで生きてきた過去と、自分が向いている未来である。

つまり、自分が生きてきた過去を否定し、未来への希望を失った途端、人間は自我を失い、もろく崩れ去ってしまうのだ。

私は自分の事を人間だと思っていた。しかし、私は人間ではなかった。過去も未来も無い、ただのモノだった。

薄々気がついていた。認めたくなかったのだ。

自分がマザコンであり、ファザコンであり、バイであり、精神障害者だと言うことを。

「失った自分」なんてなかった。最初から自分なんてなかったのである。

私は、多分、異様で異常なほど、教育という分野へ執着心を持っている。 ずっとまえから自覚している。

だからこそ、私のような人間は教育事業に関わるべきではないと思っているのだが、どうしても粘着してしまう。手を出さずにはいられない。

その異様なまでの執着心がどこから来ているのかわからなかったのだが、ようやく発見できたのである。

それは、ほんの生まれて間もなかった頃の私が、人形として、ペットとして生きていくしかなかった私が、 無意識のうちに心の奥底に押し込めていた、本当の私のココロなんだと。

人間として生きていきたい。自分の心で、意志で、生きていきたいと願う、 未熟なココロの私が、私という人形を動かしていたのだった。

躰は25歳なのだが、ココロは0歳児とか、ひどい話だなー。と自分に対して思う。

人間としての生き辛さの正体は、従順な人形になることと、猫のような気まぐれな態度をとることしか、人との関わり方を知らないから。

自殺願望の正体は、作られた私を破壊して、人間として生きたいという、幼い幼い私の本能からだった。

すべてに納得が行った。すべてを受け入れた。

自分は、重度のマザコンであり、重度のファザコンであり、バイであり、精神異常者だと言うことを。

他にいい言葉がないからバイって言葉を借りるけど、厳密に定義するならば、ココロが未熟なので、「未分化」の状態だと思ってる。 躰は100%男だけど、ココロはどっちかわからない。

教育を受けたい。ってずっと思ってる。おかしい。

大学まで一応卒業しているはずなのだが、ずっと「教育を受けたい」って言ってるの、おかしくない?

さて、どんな教育を受ければ良いんだろうか。学校に行けば良いんだろうか。

人間になりたい