May in the dark

生きるのに困ったら

神はサイコロを振る。が、世界はいずれ収束する

神はサイコロを振らない。と言うのは、アインシュタインの有名な言葉の一つで、観測するまで状態が一意に決定できない曖昧なふるまいを許容する量子力学を批判する言葉として用いられた。

 

私はもちろん素粒子物理学のプロじゃないので、最低限の教養程度しか把握していない。しかし、一つ一つの粒子の曖昧なふるまいを許容するのに、しかしながら最終的には結果は一つに収束していくというのはなんとも不思議な話である。確率は収束する。

 

もちろん、確率1/6 のサイコロが完全に1/6 に収束するかと言われるとそうではない。コインの表裏が完全に確立通りに収束するなら この世界は、物質と反物質が打ち消しあい完全に存在しない事になる。しかし、実際にはそうなっていない。非対称性の破れがそこには存在する。

 

しかし、そのような事は本当に稀であり、現代科学の理論の中では、現在の宇宙に至るまでの確率は宝くじを引くよりもはるかに低いのだとか。だから、そういうレアケースの事を特に考えないのであれば、神はサイコロを振る。しかしその結果は一つに収束する。まるで神の上位の神が存在するかのように。

 

ここ一年くらい、AIの発展によって、そもそも人類は知的生命体なんかじゃないんじゃないかとと思い始め、そうであれば更に自由意志なんてものも怪しいと思っている。自由意志が存在しないのであれば、未来は運命によって決まっている。しかし人間は自分の意志や行動によって未来が変えられると信じている。

 

なんでだろうなと思ったが、これは先ほどの確率の話と一緒なのではないか。

人間は必ず生まれ、そして死ぬ。その因果を覆した人間はただの一人も存在しない。生という原因に対して、必ず死という一つの収束が約束されている。

 

だから、大事なのは、結果ではない。どの道を辿るかである。

神はサイコロを振る。だから、道中、どこの道を辿るかはわからない。けれども最終的にはただ一つの結果に収束する。

 

さて、人生と言うスパンで考えると因果が1:1なのであまりにも面白くないが、現代社会では、必ず通るべき(あるいは通ることになりやすい)チョークポイントのような、確率が収束するポイントが何か所か存在すると考えられる。

 

例えば、小学校に入学する。なんていうのは、先進国の生まれであればかなりの確率で通るだろうし、厄年という考え方は、多くの人が通りやすい苦難をある確率で示しているようにも思える。

 

話を戻して、結果が収束することが約束されているのであれば、その道中は無茶が効く。人間に自由意志なんてものは無いが、過去から未来に続く連続性によって作られたものである認識だけが現実なのであれば、その道筋を捻じ曲げることができる。

 

と、回りくどい言い方をしてきたが要するに「人間どうせ死ぬんだし、無茶苦茶やっても良くね?」である。反社会的である。

 

かといって実際に反社会的な行動をするつもりはさらさらないが(面倒くさそうだし)、変にかしこまる必要もない。

 

物語を書くというのは、一つの道筋を示すという事だと考えられる。原因と結果は必ず一対一だが、その道中も一本とは限らないのに、それを可能な限り一本に集約させる。これが宗教だ。一本に集約させると、集団の統率が取りやすい。自分の世界を押し付けることができる。

 

自分の思い描く一つの物語が勝手に走り出したら、あとは自由になれる。それが闇の中心で私が思い描く一つの生存戦略だ。