世界とは自分であり自分とは世界である
まーーーた、あやしいスピリチュアルっぽい話だな。
ここ1年近く、どうして日々世界が悪化していくのだろうと考えていた。遠く離れた戦争の事から、自分の身近で起こった出来事まで。
「自分にしか出来ない仕事がしたい」なんて思ったことはない。むしろ「自分にしか出来ない仕事なんて言うのは、業務ロジックが明文化されてないダメなタスクの典型例だ」とさえ思っている。
そんな私が「自分が頑張らないと崩壊する」と思わざるを得ない場面に、仕事でもプライベートでも遭遇し過ぎた。結果、私は心身ともにキャパシティオーバーして壊れてしまった。
私は今まで何度も、コミュニティの崩壊に出会ってきた。職場崩壊、家庭崩壊、はてはネトゲのギルドの崩壊まで、自分がコミュニティの中心に近いコミュニティほど崩壊が早く、逆に自分が中心から遠いコミュニティほど、長く存続しているように思う。
けれど、自分が「中心に近い」ではなく、「自分が中心になっているコミュニティ」では、諸々の理由で活動が終了し「解散」となった事はあれど、「崩壊」と言った現象は無かった。
例えば、前々職のチームでは、私がチームリーダーを務めていたわけだが、様々な困難はあれど、プロジェクトの満期終了に伴う解散であったし、自分が主催したイベントも、イベントが無事終わって解散したが、そのイベントをきっかけに結婚した夫婦まで現れた。
自分が世界の中心だなんて思っても居ない。そもそも地球はきっと宇宙の中心じゃない。けれども。この世に「自分」などと言う自由意志が存在せず、「自分が自分であるという認識」だけがこの世界に唯一存在する現実なのだとすれば。
常に世界とは自分であり、自分とは世界である。
世界とは自分であり、世界とは自分であるのなら、自分の認識で世界は変わる。「こうしたい」とか「こうありたい」とか、もっと堂々としていればいいのである。それを邪魔する奴が現れるとすれば、それさえも、自分の認識が「敵」を生み出しているに他ならない。
最も大事なのは、自分だけの現実。それさえ見失わなければ、モチベーションを上げるために何かを摂取したり、モチベーションを下げないようにする工夫を凝らさなくても良い。
自分の持っている熱量がそのまま、コミュニティの大きさに直結する。自分のモチベーションが高いときは、自然とコミュニティも拡大する。熱膨張と一緒だね。逆に下がるとコミュニティも自然と収縮する。
1人で生きていくとは、つまるところ究極の自己責任の世界であり、自己解決の世界でもある。もちろん、一人で生きていくことなんてできはしないのだが、心持としては間違っていないだろう。
今日、雨が降っているのも自分の所為だと考える。まぁ、それはさすがに行きすぎな気もするけど、世の中逆の方向に行き過ぎた奴らの例として、「ダンスパウダーを積んだミサイルをアメリカが打った」なんて言う奴らもいる。究極の他人任せの世界だ。
自分のために自分の事を何とかするのが、一周回って世界をよくする。我田引水とは違う。我田引水は短期的にはプラスかもしれないけど長期的には結果損する。本当に自分のために何かをしていることにはならない。
世界で最も有名なメンヘラ事レディガガの言葉で「深い影が差しこんでいるとき、あなたは光の中にいる」というのがある。つまりそういう事なのだ。だからこそ、このブログのタイトルは May in the dark なのだ。