May in the dark

生きるのに困ったら

まだ私は死んでない

 

この世には宗教と言う概念が存在するが、一神教であれ多神教であれ、その形態が言い伝えにより浸透する民族神話か、教典に乗っ取った組織だった宗教かはさておき、とにかく宗教と言う物は、人間の死生観を決定する非常に大事で重要なファクターである事には間違いない。

 

さて、どんないかなる宗教も、多かれ少なかれ、死語の世界として「天国」と「地獄」という舞台を用意している物が非常に多い。(無い民俗信仰もあるけど)

 

例えば仏教は六道輪廻と言って、死後の世界を6つに分類しているが、その中でも、キリスト教で言う地獄に相当する奈落と、天国に相当する浄土がある。

 

更にさらに、(言い方は千差万別だけど)「魂」と言った概念はほぼすべての宗教・民俗信仰で存在する。そしてだいたい、なんらかの形で、魂と言う概念は不変の存在であることが多い。

 

逆説的になってしまうけど、これだけ世界中で「魂の不変」が唱えられるという事は、それだけ、「我々は自我を持っている」という人類の認識が、非常に強力で強大である事に他ならない。

 

 

 

 

時代は進み、科学が宗教に置き換わってもう随分経つはずの現代。

 

実は全然、宗教は科学にに置き換わっていなかった、と言うのがここ最近の私の気づきであるのだが、そんな、宗教を科学に置き換えられない大多数の人類にとって、ここ数年の科学の発達はあまりにも早すぎた。

 

優秀なアルゴリズムとコンピューターリソースの集合体の事を世間はAIと呼ぶが、所詮は、ニューラルネットワークを膨大なLSIで実現してるだけに過ぎない。維持には莫大な電気代がかかるし、それを開発・維持・整備する人間は数万人必要だし。こんな物が人類の全てを置き換えられるわけがない。

 

「AIが人類の仕事を奪う」とか言ってる奴は、不安を煽って本を買わせようとする新興宗教(最近はそれをインフルエンサーと言う)の教祖か、研究資金が足りてない貧乏なAI研究者か、人類に絶望し心の底から人間を嫌っているサイコパスの三択である。

 

ChatGPT の生みの親のサムが語るように、現状の手法では、これ以上の発展には限界が来つつあるのだが、しかし残念なことに、大多数の人類にとって、AIは自分が信仰してきた宗教の限界を遥かに超えてしまった。

 

宗教が死生観を定義する最大の恩恵は、社会に属する人間に対して「生きる意味」を強制的に与える事である。

 

前回・前々回でも語ったように、一つの物語を共有することで人類は発展してたわけだし、その物語において、個々人に「生きる意味」を与えることで、その人を社会の歯車として機能するようにしてきた。物語を共有してきたからこそ文明は発達してきたのだし、物語を共有できなかった文明はもうすでに滅んでしまった。

 

 

宗教と同様に、科学は一つの強力な物語を共有する。それは、森羅万象を人類は解き明かすことができる。森羅万象を解き明かす過程で人類はより発展し幸福を手に入れることができる。といった趣旨の物語である。

 

この物語は、既存の宗教よりも遥かに強力で効果的だった。既存の宗教よりも圧倒的に実利を伴う。私が今こうやって、パソコンの前で誰も見ていないであろう文章をカタカタ打ち込めるのも、科学のおかげである。宗教のおかげもミリくらいはあるかもしれないが、まぁ極めて限定的だろう。

 

しかし、科学には唯一にして最大の致命的な欠点が存在する。それは、死生観を定義できない事である。定義しようとする試みはもう数百年と続いているが、それはまだ実現せずにいる。

 

死生観を定義できないという事はつまり、科学は生きる意味を人々に与えてくれない。

これが科学の最大の欠点で、だからこそ、21世紀もずいぶん進んだ現在でさえ、宗教は全然科学に置き換わっていない。

 

いわゆるAI技術の急速な発達と普及に伴って、一つの疑問が徐々に確信へと近づいていく。それは、「人間は果たして本当に知的生命体なのか?」という投げかけと、それに付随して生じる「そもそも、魂や自由意志といった物は存在するのか?」という問いである。

 

確かに、人間が持つ知能や生態機能を人工的に再現しようとすると、莫大な設備が必要になる。よくこんなものがこの体に収まっているなとひどく感心するが、それでもだいたいの機能の置き換えができるという事が証明されつつある。

 

じゃぁ、それを全部実装した設備は、人間なのか?自由意志を持っているのか?魂が宿っているのか?という哲学的な問いが発生するだろう。

 

この問いに対する科学的な答えは明確に No あるいは None である。そもそも魂と言う物を定義できていないのだから回答できないが正しいか。

 

一方、宗教的な回答はYes と No の真っ二つに分かれるだろうが、これは「自由意志」や「魂」と言ったものの存在を前提にしているからこその葛藤である。

 

余談になるが、日本の神道は宗教の中でもかなり異質で、なんとそのへんの石にさえ魂が宿る。森羅万象あらゆるものに魂が宿ると考える。魂をがあるか無いかを前提に線引きするその他多数の宗教とは明らかに一線を画す。先ほどの問いに対しても、明確にYes だろう。笑

 

話を戻すと、科学は淡々と「自由意志」や「魂」と言った存在を否定しつつあるが、宗教は「自由意志」や「魂」という存在を大前提にしているので、これらを否定されると完全に崩壊してしまう。

 

自分には自由意志なんてない。全ては化学反応の集合でしかなく、魂なんてものは無いし、死んだらそれまで。自己と言う存在はあまりにも不安定であり、機械的であり、刹那的である。

 

それを認めてしまうと、じゃぁ何のために生きているのか?何も希望が持てなくなってしまう。何とも言い難い、耐えがたい恐怖に襲われて死にたくないのに死にたくなるような、逃げ出したい感情に支配されてしまう。だから大多数の人間は認めたくない。

だから、21世紀にもこんなに進んで、宗教は科学に置き換わらないまま、科学だけが人類の大多数を置いて先に進んでいる。

 

それを認めて平気な顔をして生きていられるのは、一部のサイコパスだけ。

 

でもね。

それを認め、受け止めて、一通り怯え、人類に、世界に、何もかもに絶望した今でなお、私と言う存在が、今ここに生きている。

 

まだ私は死んでいない。

 

ただそれだけが、生きる理由であり、希望であると認識したこの場所が闇の中心であり、一様な世界に原点を作る。

 

新しい物語を生み出すための土台が整ったから、次回からは物語を組み立てていこうと思う。