May in the dark

生きるのに困ったら

闇の出口に

一年間くらい、更新していなかったこの闇ブログ

 

この投稿が、このブログ最後の投稿になる。

なぜなら、私は六里霧中をついに抜け出したから。

 

気がつけば、28歳。

 

まだ若いと捉えるか、もうおじさんと捉えるかは人それぞれだと思う。私は、今まで「もうおじさんだしなー」とか言いながら「まだ若い」と思っていたんだと思う。突然、人生短いなって感じるようになった。

 

今年、結婚した。

最愛の妻と出会うことが出来た。

 

この出会いには。妻には。本当に感謝している。私は闇の中に居たが、誰かに助けられて生きてきていた。意識していないところで、誰も彼もが私が生きるのを助けてくれていた。

 

それに気がついたから、私は闇を出ることが出来た。

 

この闇ブログを始めたのは、「もっと良く生きたい」「もっと自分らしく生きたい」って思い悩んでいたから。

 

悩んで悩んで、迷走に迷走を重ねて。

 

答えは自分の中にあるし、自分の外にある。

闇の出口はまた闇だった。

それでも、「闇を信じる」闇の中に居る自分を信じることができるようになったから、私は闇を出ることが出来た。

 

 

ありがとう。

 

これからは自分のために生きていく。自分のために、世界を良くしていく。自分が生きやすい世界を作る。この闇の世界を照らすのは、何者でもない、自分自身だったのだ。

 

自分の周りに影しか見えない時、あなたは光の中にいる。

 

あなた自身が、光なのである。

私自身もまた、闇の中にいる光だった。

 

2019年9月21日

May in the dark を書いてた人

 

   

 

 

 

完璧主義、人間不信、無気力感。それらをハックし自分で自分をカウンセリングする

 

本題の前に、注意事項と、用語解説をします。

まず、私は精神科医でも臨床心理士でもありません。全て自分の経験則に基づき、やってきたことを淡々と説明するだけの記事になります。なので、内容が医学的に正しい保証はないですし、私以外の人に適用できるとは限らない事をご理解ください。

その上で、何か参考になることがあればと思い、後から自分を振り返る時のメモ代わりを兼ねて残します。

 

ハック

上手くやり抜く事。仕組みを理解し、それらを組み合わせてなんかいい感じにする。くらいの意味です。

 

自己肯定感

「自分はこの世に存在しても良いんだ」と思える度合いの事。自分好き度と言い換えても良いかもしれない。私はAという欠点もあるけど別にいいじゃん私そういうやつだし。って思える自分に対する許容量の大きさとも言える。「だからお前はだめなんだ」と言われ続けて育ったりすると、「私はAが出来ないからだめなんだ」と思い、Aが出来ない私に限らず、Aが出来ない他人に対しても攻撃的になったりする。「AもBもCも……なにもない。私には良いところなんて何もない!」となると自殺して死ぬ。

 

自己効力感

自己肯定感と勘違いしやすいが、こちらは、自分の行動に対する自信。

「何をやってもうまくいく」と思っている度合いの事。「やったこと無いからわからないけど、なんかできそうな気がする」と思ってる人は自己効力感が高い。自己効力が高い人は、壁に躓いても努力すればなんとかなると、頑張れる力が高いことが多い(最近本屋でよく見るレジリエンスとかにも、自己効力感の高さも含まれる)

「やったこと無いけどどうせ私に出来るわけがない」と思ってる人は自己効力が低い。どうせ頑張っても出来るわけがないと思ってるので、頑張ることが出来ない。結果出来ないまま終わる。

ただ、全体的な自己効力感(general-self-esteem)と、特定の分野に対する自己効力感(spedific-self-esteem)には大きな乖離があることがある。何も出来ないけど、絵を書くことだけは私は出来る。みたいな人も世の中には居る。所謂ASD発達障害と言われる人たちは自己効力感が分野によって極端になりやすい。

 

 

過去の原体験を再構築・再認識する。

客観的に見つめ直すには、自分の心情を可能な限り口に出す必要があります(or 文字でもブログでもTwitterでもなんでも良いです)

 

最近マシになりましたが、私は死にたいが口癖です。その口癖を吐いたとき、冷静にその言葉に対して「なぜ?」と問いかけるメタ人格を用意します(客観的に自分を見つめる存在を自分の中に持つ事。詳しくは後で)。

「死にたい」

どうして?

「どうせ俺なんて何をやってもだめなんだ」

何がだめだったの?

「何もかもがだめだったんだよ!!!うるさい!!」

じゃぁその「何もかも」を全部一個一個言って。

「今日起きれなくて寝坊して、仕事でもミスをしてしまって、彼女にも愛想を尽かされて(以下略」

 

と、一つ一つ、とにかく愚直に総当たり的に、深さ優先探索で深掘りします。

深さ優先探索とは、例えば「何もかもがだめ」の中身が

  •  寝坊したこと
  •  仕事でミスをしたこと
  •  彼女に愛想を尽かされた事

の3つで構成されていたとします。このとき、一つ一つ並行して聞くのではなく、まずは「寝坊したこと」に焦点を当てて深掘りします。すると

  • 子供の頃から寝坊が多くて叱られ続けてた
  • 夜、明日起きれないんじゃないかという不安で寝れない

という2つの事象が上がってきました。すると更に深掘りして「子供の頃から寝坊が多くて叱られ続けてた」ことに対してエピソードを聞いていきます。その間は、他のトピックは一旦横に置いておきます。これを深さ優先探索といいます。(深掘りとも言う

 

そうやって自分の考え方をとにかく解剖しつくします。解剖し尽くすとおおよそ「幼い頃の嫌な体験。記憶。エピソード」が浮き上がってきます。

それらは、思い出すたびに、当時の状況がフラッシュバックされ、息苦しくなって、言動が怪しくなります。ですが、これを書き出さないと話が始まりません。これが自分で出来ないうちはまだ回復期ではありません。むやみにやらないほうが良いです。

 

さて、ここで着目すべきことは、私の「生きづらさ」の核となっている人物は誰かという事と、「嫌な思い出」を打ち消すための肯定エピソードを作るにはどうしたらいいか。という事です。

 

「嫌な思い出」を打ち消すための肯定エピソードを作る。とは、つまり成長が止まったままの心を成長させる。ということになります。

 

もちろん、この精査作業は一回では終わりません。私は闇に落ちて10年くらいですが、その間何度も練り直して考え直して新たな発見があります。

 

基本的な作戦

さて、自分の過去の記憶を消したり、過去起こったことをなかったコトにすることは出来ません。ではどうするかというと、現在未来の自分の行動によって、過去の解釈を捻じ曲げます。

つまり、直接的に操作することの出来ない心に干渉を試みようとするのではなく、自分の体を先に動かすことで、体にひっついている心を連動させて動かすという試みをします。 

ここで言う体を動かすというのは、「運動をする」という意味ではなく「今まで行ったことがない事を行う」という意味です。

 

「矯正」のイメージに近いですね。

 

 

とにかく、悪い影響を与える他者と離れる

私に悪影響を与えていたのは誰か。それは間違いなく両親なのです。なので、私は物理的に両親と離れています。

悪影響を与える人と離れるというのは、学校を帰る、転職する、様々なパターンがあります。自分にとって悪影響だなと直感的に感じた人は、たとえ他の人がどんなにいい人だと評価していても、あなたにとっては悪人です。離れましょう。

 

これは逃げでも差別でもありません。出血を止める止血と同じです。

必要であれば精神科等に行って薬を飲んだりするでしょう。それは風邪を引いたから風邪薬を飲んだり、出血したから止血するのと同じです。

 

とにかく、悪影響のもとと関係を断つ事。これは必須です。

 

とにかく自分を甘やかす

まずは、自分自信を赦すところから始めます。

 

とにかく、経済力の許す限り自分の事を甘やかします。もちろん自分の経済力を超える事をやってはいけません。とにかくゲームを買うとか旅行に行くとか何でも良いんですけど、とにかく、甘やかすのです。個人的に一番効果的なのはメシです。

 

これも、わからない人からしたらわからない感情ですが、多くの人は「うまい飯食えて最高」としか感じないでしょう。

私のような自己肯定の低い人たちは、最初は「私のような人間のクズが、このような美味しいごはんを頂いて良いのだろうか」と罪悪感マックスで死にたくなります。多分、本気で泣きます。

それが「うまい飯食えて最高」になるまで美味いもの食います。

 

 

自分で自分を褒め称えまくる

自分を許すことが出来たら、次は自分を褒め称えます。

具体的には、「俺なんてクソゴミ野郎だ」と言うのではなく「俺マジ神なんじゃね?」と自分を褒め称える事をします。些細なことでいいのです。「俺今日も生きてるし神なんじゃね?」と言い続けます。良かったことはもちろん、ネガティブなことにも「俺神なんじゃね?」と言い続けます。

最初はこの「俺まじで神なんじゃね」作戦。自己肯定が低い人には恐ろしいほどしんどいです。「今日も俺は○○が出来なくてクソゴミだったわ」ってなります。それを辞めるのです。とても怖くてできないはずです。怖いですが言うのです。やるのです。どんな些細なことでも(例えば、俺今日ちゃんとゴミ出ししたわマジ神)でも、自分で自分の事を褒め称えるのです。

大事なのは、自分で、自分を、褒め称える。です。他人が褒めても意味ないのです。

 

 

 

とにかく自分を応援する

さて、以前も書きましたが最も難しい事です。

自分に対して「がんばれ。お前なら出来る」と言うことが最後にして最大の壁です。

 

なぜなら、精神を弱めたときの決まり文句に「頑張れ」と励ましてはいけないという大大大原則があり、弱まった期間が長い人ほど「頑張ってはいけない」と思っているからです。「頑張る」ということに対して距離を置きすぎて「程よい頑張り」がわからなくなったりしているかもしれません。

 

当たり前ですが、「程よく頑張ること」が最も大事です。頑張り過ぎも休み過ぎも良くないです。

この「自分にとって頑張れる範囲はどこか?」を探る作業が、最も難しく、最後の壁として立ちはだかります。

 

 

 

自分の「頑張る」を無理やり数値化する

さて、自分の「頑張り」をどうマネジメントするか。という話ですが、「スクラム」に近い方法が良いんじゃないかなと思ってます。

 

頑張りたいことと、それに対するしんどさを自分基準で大雑把にポイントを割り振り、できればしんどさのベクトル(運動系とか、手続き系とか、人付き合い系とか)みたいなのを書き出し、毎週振り返ります。

 

今週達成したポイントは10Pくらい とか「今週は調子良かったから20Pいけたわ」とか「調子悪かったから3Pしか出せてないわとか」と、数値化出来ないものを無理やり数値化してベロシティを図っていき、それが全体を見て徐々に上がっていくように改善するのが良いんじゃないかなって思ってます。

 

 

自分を客観的に見つめることのできるメタ人格を形成・改良していく

まず前提として、メタ人格(=自分を客観的に見つめる人格)を0から自分ひとりで形成することは絶対に出来ません。私達人間は、他社との会話・やり取りの中で、私のAという行動に対してA'という反応が帰ってきた。という経験を積んでいきます。その集合知がメタ人格になります。

問題は、Bという行動を実際に行ったことがなく、B という行動をおこしたら間違いなくB' という結果が帰ってくるだろうと思いこんでる場合です。

これは、実際にBという行動をおこしたわけでもないのにB' が帰ってくると思い込んでいるので、実際にはCが帰ってくるかもしれません。このような想像と現実のズレを認知のゆがみと言い、認知行動療法で取り上げられるテーマになります。

 

このとき必要なのは、Bという行動を実際に起こす勇気をくれる人です。そしてそれは自分ひとりでは絶対に解決しません。このとき、所謂プロのカウンセラーや認知行動療法師に頼んでみるのは選択肢としてはアリですが、正直微妙でした。(相性問題はあるので、あたりを引くまでガチャを引くというのもありますが、ちょっと諸事情によりナシに……

 

さて、このときに個人的に非常に有効活用させてもらったのが、ネトゲです。

最近だとVRChat とか良いんじゃないですかね。自分とは異なる別の人格の自分になれる。最高のRPGです。RPGは別にダンジョンに潜って敵を倒してレベルアップではなく、何かになりきる事を目的とします。

オリジナルの人格と、ロールプレイで演じられる人格は別物で良いし、物理的に切り離されているインターネット空間では非常に有効です。

現実世界の自分が行わないBという行動を、わりとあっさりインターネット上の自分が行えたりします。

そしてその経験はわりと現実の自分にも帰ってきていたりします。

 

まとめ

最後になりますが。

当たり前ですが、可能であれば、傍で支えてくれる人を見つけるのに越したことはありません。ですが、誰にでもそんな人がそばにいるわけではなく、そんな人が居たとしても常時傍に入れくれるわけでもないので、ある程度は自分でなんとかするしかないんです。

 

この闇ブログでこんなに長文を書いたのは初めてなので、誤字脱字構成ミス等色々あると思いますが、気がついたら修正していきます。何かの参考になれば。

一度落ちたクリエイティビティは二度と回復しない

ついに同期が会社を辞めると言い出した。

 

まぁ、もうそろそろそういう時期だな。と思ってたので、そうか。お疲れ様という気持ちだが、彼を慕っていた後輩はさぞショックだろう。後追い退職するだろう。

 

 

彼と話していて印象的だったのは、「精神やられるよねー」ということと、「クリエイティビティが落ちた」という言葉の相関が非常に強かった。あと、些細な事を気にしなければならないことが多すぎて、全然やる気にならなかったとのこと。(彼は雑念と呼んでいた)

 

まぁわかる。私も万年そんな感じだから。

 

で、会社を辞めたら一気にクリエイティビティが回復したと言っていた彼は、まだ比較的回復可能な領域だったのだろう。

けど、こうも言っていて「以前ほどの天真爛漫さは失ってしまった」と。でも、これは単純に年を取るということなのかもしれない。若さは永遠に復活しないからね。

 

私はもっと深刻な位置にいる。

 

そろそろちゃんと言語化したほうが良い気がする。

 

私がメンタルと呼んでる物は3つある。

 

一つは自己肯定。一つは自律神経。一つは思考力。

 

メンタルをやられると、まず真っ先に思考力が落ちる。クリエイティビティとか呼んでるけど、真っ先に思考回路がやられる。具体的には海馬と前頭葉の接続がうまくいかない。「あれ、今何をしようとしてたんだっけ」という頻度が爆発的に増える。

 

なんでこういう現象が起こるのかというと、気にすべき情報が多すぎて、必要でもない些細な情報で脳の領域が専有されているからだと思う。

 

次に自律神経がやられる。やられるというか、麻痺するが正しいのかな。私の場合はお腹空いているのに、お腹空いていると感じなくなったし、暑いのに寒いと感じたり、もう色々とおかしい。37度の猛暑の中でも私は長袖を羽織ってないと寒い。おかしい。

 

最後に自己肯定がやられる。もう何もできない。無理。死ぬ。ってなる。このあたりでようやく「お前うつ病なんじゃね?」ってなる。このフェーズまで行くと、とにかく感情の制御ができなくなる。ただ無限に怒ったり、無限に不安に煽られたりする。実は躁鬱と鬱、統合失調症なんていうのは、感情の制御が出来ないという本質は同じで、その出方が違うだけなんじゃないかなと思ってる。

 

実はこの先があって、それは無気力。無感情。無表情。何もかもがどうでも良くなる。全ての感情が「虚ろ」もしくは「諦め」に変わっていく。所謂心の死。自分の経験上、心の死フェーズまで進んだ人は、周囲であまり見かけない。(多分見る前に自殺してるからだと思うけど。

 

ここまで行ってしまうともう回復しない。だって「心の死」なんだから。死ぬ条件だけど、多分何度か「感情の暴走」フェーズまで行くことが条件なんじゃないかなって思ってる。個人的な経験論だけど、あの瞬間、突然「もう何もかもどうでもいいや」ってなってしまった。あの感覚はちょっと言語で説明するのは難しい。

 

それまで持っていた不安。怒り、悲しみ、全てすーーーーっと心から消え去って、体だけがその場に残ってしまう感覚。その後、隔離病棟にブチ込まれるわけだけど、看護師さんからは「全然メンタルやられてるように見えませんよー」って言われるくらいには元気だった。心が死んでるので、従順な機械人形みたいに、医師やスタッフの指示に従った。多分死ねって言われたら死んでたと思う。心が死んだあの日。あの瞬間。私の残りの人生は全て余生になった。

 

おそらく私はあと50年くらい生きるから、どうやって暇つぶししようかなってなった。

 

そうなったらもうクリエイティビディなんて回復するわけがない。

 

一度落ちたクリエイティビティは絶対に回復しない。私はそういう星の下に生まれなかった。次の私に期待するしか無い。

平和三原則は、関わらない、関わらない、関わらない、の3つだ!

みんな本当に、真面目でいけません。本当に尊敬します。

 

ややこしいこと。面倒くさいこと。どうでもいいこと。

 

関わらない。関わらない。関わらない。

 

 

それだけですべてが解決する。

 

このブログを作る前。ガチで誰ともしゃべらない生活を半年やってましたが(もちろんインターネットでの発言も一切しない)、世の中それが出来ない人がほとんどらしい。

 

 

色々と思うことがあるが、別に私が何か言ったりしたことで解決するわけではない。私が全知全能の神だったり、5000兆円持ってるやべーやつだったら何か解決できるかもしれませんが、あのザッカーバーグが一億ドル(日本円にして100億円)ぶっこんでもアメリカの麻薬問題と教育問題が解決しなかったように(詳細は下記リンク参照)

 

ザッカーバーグですら無理やねんで……?そんなん凡人の私にどうにかできるわけがないやん!

 

 

なので、関わらない。関わらない。

 

この世の中の変数は、自分と自分の未来だけ。その自分ですら制御が難しいことが多くて大変だというのに。

 

みなさん、真面目でいけません。

 

 

学校。行かなくて良いんだよ。行ったら死んじゃうよ?

逃げるんじゃないよ。戦略的撤退だよ。

 

どんな事があっても、この世は死んだ奴の負けなんだ。(死んでも思想や意思・功績が残っていればそれは"生きている"ので負けにはならない)

 

学校なんてどうでもいいやつのために。

企業なんてどうでもいいやつのために。

友達なんてどうでもいいやつのために。

家族なんてどうでもいいやつのために。

自分なんてどうでもいいやつのために。

 

 

死ぬな。生きろ。

 

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頑張れない時もあれば、頑張りたいときもある。問題はどう頑張るか

心を取り戻して、4ヶ月立ちました。

案の定、梅雨の時期の6月は少し病みましたが、低空飛行のまま乗り切ることが出来ました。

 

大勢の方にとっては、夏の暑さは本当に危険で、熱中症による死の危険が迫っているのですが、私にとっては恵みの夏です。

 

然るべき対策をすればクーラーなんてつけなくても余裕で生きていけます(もちろん扇風機を回すとか、脇を水に濡れたタオルで冷やすとか、そういう事はしていますよ)

 

オフィスはクーラーガンガン回してて寒くて、未だに長袖パーカーという春秋スタイルの服装をしています。

 

いや、本当に熱中症のリスクの一つに効きすぎのクーラーって絶対あるんだよな。

 

だって寒いと、熱が体から逃げないように縮こまるやん。そのまま外に出るやん。暑いやん。体に熱こもるやん。そら死ぬわ!笑

 

 

私は今頑張りたい。

他の人はわからないけど、私にとってはこの暑い時期が最も活動に適した時期なので、今頑張りたい。

 

いつも書いているように、冬は全然体が動かなくて、特に11月は本当にひどい。大体、大きな失敗をするのは絶対に11月。彼女と分かれるのもだいたい11月。病んで休職したのも11月

そうなると、本当に頑張れない。

うつ病対策のテンプレ過ぎる「頑張れって言うと良くない」は本当にわかる。

 

 

けど、今は頑張りたい。人間、頑張れない時期もあるし、頑張りたい時期もある。

 

私は、今、頑張りたい

 

 

問題は、どう頑張るか

 

 

私だけじゃなくて、身近にも、今頑張りたい人が居る。その人達をどう応援するのか。自分をどうコントロールすれば良いのか。

 

 

本当に優れたメンターというのは、頑張れない時期には休めって言って、頑張りたいときに「よっしゃ頑張ろ!」って後押ししてくれる人なんだなって思っている。

 

 

頑張れない時期にいる人に「休んでええんやで」とか「逃げじゃない。戦略的撤退や」とか「ココは俺が食い止めるから先にいけ!」みたいなアドバイスをする能力はついてきたと思うから、次は、頑張りたい人に、勇気を付与する能力の獲得を目指したい。

 

が、実はこれめちゃくちゃ難しいことに最近気がついた。

まずその一つに、色々アドバイスをしてしまいたくなってしまう点がある。

 

聞かれても居ないのに「こうすると良いで」とかいう助言はメンティーのやる気と考える力を奪う。良くない。ただの老害

 

色々と先回りして、布石を打ちたくもなる。これもめちゃくちゃ難しい。「お膳立てされてる」って感じてしまうと、やっぱり人間やる気を無くす。

 

かといって、闇雲に頑張れがんばれって言い続けるのもナンセンス。人間は、心のエネルギーが尽きるときはわりとあっさり尽きるので、程よく休ませなければならない。

 

飲み会とかに誘うのも、その人の気質によっては良くない。

逆に飲み会に誘うと怪しい宗教に感化されてしまった人のように、悩みを潰して目標に迎えるようになるメンティーもいる。

 

賢者は過去に学び、愚者は経験に学ぶ。しかし、「やってみなはれ」や「やっていき」のような、まずは体を動かすことのほうが大事みたいな場面もおうおうにたくさんある。かといって、「なんであの時教えてくれなかったの!!」と、不信感を買ってしまうこともある。

 

頑張るって難しい。

 

頑張る人を応援するのはもっと難しい。 

人として信頼されていることは嬉しく思う

人として信頼していると、信頼する上司に言われることほど嬉しいことはない。

 

嬉しいことはないが、3年間ずっと、戦国時代で言う殿みたいなこと。つまり、製品の撤退処理であったり、同期や先輩が残したクソなもののおもりをしたり、営業や企画が残したものをクソがって言いながら処理する仕事に疲れた。

 

 

さすがにもう私はキレていい。キレていいよな?

それは闇ではなかった

最近、闇を感じることが少なくなりました。

 

 

今まで闇に苦しんでいた自分にとっては、確かに一瞬希望にも思えたのですが、そうではなかった。

 

今まで自分が闇だと思っていたものを、必死にもがいてかき分けて精査していくと、そこには「何もない」がある。ということが分かりました。

 

 

光と闇は同義だと思っていて、「光射すところに影もまた生まれる」がこの世の真理なので、すごい目立つ綺羅びやかな人生の足元には無数のそうではない人生があるのです。

 

だから、闇があるということはどこかに光があるということで、それを求めるのは非常に容易いことでした。

 

ところが、調べても調べても光は見つからず、闇が深まるばかり。

 

それは、闇ですら無い「虚無」だった。

 

In the Darkness ではなく、in the Nihilistic だった。笑

 

ていうことに気がついて、虚無から光を生むか、闇から建造物を作り出すかって二択を迫られて、後者を選ぶことにしました。

 

つまり、再び混沌の世界に身をおくことにしました。

 

ドロドロとした、薄暗くて、それでもどこかぬくもりを感じる混沌の世界。そここそが私の居場所で、私の力の源なんだろうなと気がついてしまったのです。

 

ていうか、虚無から光を生むって、ビッグバンを起こせってことなので無理に決まっとるやんけ。

 

この国は、闇すらも消滅する、虚無の世界がどんどん広がっていっている。確かに、虚無の世界が持つ力もまた存在するんだけど、自分が虚無になってしまっては本当にもう救いようがない。それこそ心の死だ。

 

だから私は闇に逃げる。闇と共に生きる。

 

と改めて決心した